「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい」Ⅰヨハネ5:21

新約でも旧約でも、繰り返し繰り返し「気をつけなさい」と言われているのが、偶像崇拝だ。「気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように」「あなたがたは十分に気をつけなさい。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい」。

 

イスラエルにとっても、私たちにとっても、よく気をつけ、十分警戒すべき根本的な事が「偶像礼拝」だ。今、クリスチャンなら、木や石や彫像を拝む人はまずいない。しかし、違う形の偶像が存在する。偶像とは、神以外のものを神とすることだ。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない。仕えてはならない」。

 

目に見えない無形の偶像としては、名誉、地位、富、人の賞賛、人の評価、人の愛・・等々言われている。そして自分自身も偶像になってしまう。自分の思いを通したい、自分の力でやりたい、自分で理解できることしか受け入れない、どこまでも満足させたいのは、自分自身だ。目には見えないので気づかないが、自分が神になってしまっている。

 

自分の思いを遂げる時、偽りの自己満足があるが、御霊によるものではない。御霊と逆方向へ向かってしまう。主に喜ばれる事は何か、主のお心はどこにあるのか、いつもそこに目を向けている時に、間違いに気づかせられる。主のお心を求めて祈っていよう。

 

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肉は根強く、どうしても自己満足、自己充足に走ってしまう。どこまでも自分、自分と自分が偶像だ。主が喜ばれる事を求める事、主のお心を求める事、これ自体が奇跡で、みわざだ。少しずつ変えられる事が感謝で、その人生に召されている事が、大きな喜びだ。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係