「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2

 

 聖書の「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われている。だが「試練」は神からであり、「誘惑」は悪魔からだ。源が違う。神は、誰をも決して、罪に、悪に、誘惑される事はない。「神は悪に誘惑されることのない方であり、だれを誘惑なさることもありません」の通り、神から悪への誘惑は来ない。人は自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑される。欲望による。

 

神からの「試練」は忍耐すべきものだ。その時、練られ、鍛えられ、聖められ、必ず一段階成長して行く。試練は成長のためのもので、試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思えとある。成長を遂げた完全な者にされるためと。

 

反対に悪魔からの「誘惑」は、断固受け入れてはならない。拒否し立ち向かうべきものだ。受け入れる時に罪を犯す。だから「主の祈り」にあるように「私たちを試みに会わせないで、悪からお救い下さい」と祈る事は大切だ。誘惑から守られるよう祈る必要がある。悪魔の巧妙さは、順境の時に来る事だ。試練の最中では、むしろ真剣に主を求め主に拠りすがる。

 

しかし平穏な時に人は油断する。状況が順調なので、主に頼る必要が無い。物事はうまく行き、祈りを怠ってしまう。主に頼らずとも、自分でやって行けると思ってしまう。まさしく油断であり、これは高慢だ。誘惑の目的は、とにかく神から離すことだ。試練は、私たちを神に近づけ成長させてくれる。誘惑は拒絶し、試練は受け入れられるように祈ろう。

 

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試練は、なかなか喜べないが、しかし振り返ると、試練を通して主に近づけられた事は事実だ。あの試練、この試練が無ければ、今の自分は無い。試練は痛くて、つらいが、その中で祈る事が出来る。主に心の内を何もかも告げて、交わろう。忍耐する力を与えて下さる。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係