「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:2

 

 パウロは、善を行いたいのに、逆に悪を行うと言い、自分には悪が宿っているという原理を見ると言った。原理=法則で、法則とは例外が決して無い。一つでも例外があれば法則ではない。私たちの中に法則があると言う。「善をしたいと願うのに、悪が宿っている」事だ。パウロは新生し、善をしたい願いがあった。

 

信仰者には、神に喜ばれ、神の御心を行いたいという願いがある。新しい命があるからだ。それは新しい性質を宿し、神に従いたいと願う。私たちもパウロと同様、神に喜ばれる事を行いたい。ところが、願いがあるが、それに反する法則が存在する。「悪が宿っているという原理」だ。善をしたいのに、悪に走ってしまう。

 

これにはどうやっても逆らえない。どんなに物を上に投げたとしても、引力の法則が働いているので、物は必ず下に落ちる。これは法則でどうにもできない。自分の力で良い行いをして、しばらくは持つが、つらくなって必ず落ちて行く。神を喜ばせる事ができない。それを徹底的に経験したパウロは「私は惨めな人間、誰がこの死のからだから救い出してくれるのか」と叫んだ。

 

「誰が」と言い、自力では絶対的に不可能だと悟った。その時に主を仰ぎ、解決を見た。主は私たちを、「命の御霊の原理」の中に置く事によって、罪と死の原理も現存するが、そこから解放して下さった。死んだ鳥は必ず下に落ちるが、命のある鳥は大空を駆け上る。命の御霊によって、肉に打ち勝ち、善を行って行ける。

-------------

主の十字架によって罪を赦されてからの方が、罪を意識し罪が大きく迫ってくる。律法によっては絶対に救われないと認めさせられる。救いがただ主の十字架の恵みによるとは、なんと感謝な事だろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係