「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい」ヘブル12:6

 

 この世の信心は商売繁盛、家内安全、交通安全、五穀豊穣だが、御言葉は必ず試練があると言っている。主が苦しめ、試みると。主は私生児は懲らしめないが、実子は懲らしめると。主は、訓練し、鍛錬を与えて下さるが、だが訓練を訓練として受け取らなければ、痛いだけで何も学ぶ事ができず、何の益もない事になる。

 

逆に反抗し、心を屈折させ、ひねくれてしまうならどうだろう。何回、試練を通っても、自身が何一つ変えられない事があり得る。それは、自我が砕かれていない事が原因だ。この自我を取り扱われるために、嫌いな人、うまく行かない状況を目の前に送られる。

 

相手にも非があったりすると、どう見ても相手が悪いとしか見えない。相手のせいで自分は苦しい立場にいると思い、ますます憎しみが増幅する。そして心の中で相手を責めて行く。しかし自分の心に平安が無い。その苦しみもまた相手のせいだと思ってしまう。この苦しい状況を何とかして下さいと、祈るのだが幾ら祈っても祈りが聞かれない。

 

状況も、自分も、相手も、何も変わらない。祈りが聞かれず、状況も変わらない事を通して、段々「もしかして、何か自分の事を言われてる?」と感じ始める。気づきが与えられると、祈りに持って行ける。教えて下さいと祈ってゆくと、自分の内に砕かれない、頑ななものがあると示され、強い自我に気づく。

 

すると、私を変えて下さいの祈りにたどり着く。そして御心にかなった祈りは、聞かれるとの通り、この祈りは聞かれる。自分自身が変えられ、一段階、成長へと導かれる。苦しかった心に、平安が来て、解き放たれる。

 

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この世の価値観では、問題が無い事、平穏無事が祝福だ。しかし聖書には、繰り返し試練があると言っている。受け入れるすべての子に、むちを加えると。聖めるためであり、御子のかたちに変えられて行くためだ。そのところにしっかり焦点を当てていよう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係