「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう・・人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」ガラテヤ1:10

 

 日常生活で、どうだろう。何を基準にして、思考、行動しているのだろう。もし人の言動や、態度、自分への評価が基準になっていたなら、アップダウンを繰り返してしまう。人から認められ、評価されたなら心地良く、満足で、認められず、賞賛を受けなかったなら、ひどく落ち込んでしまう。そうであれば、幸、不幸が、他人次第という事になる。

 

人の言葉が気になって仕方が無いだろうか。昔の日本では、向こう三軒両隣りが神と言われていたが、人が偶像になってしまう。人にどう思われているか、人の目を恐れ、人の態度で一喜一憂し、がんじがらめになる。自由も喜びもなく、何を言われるかとびくびくする事になる。「人を恐れるとわなにかかる」、人の目ばかりを気にすると、御心と反対方向へそれてしまう。

 

人を恐れると「ノー」が言えない。相手を傷つけたくなくて「ノー」を言えないのは、実のところ相手でなく、自分が傷つきたくないからだ。又、相手を喜ばせようとして、「ノー」が言えない。人の歓心を欲してだろうか。お喜ばせするべきは、主だ。御言葉を基準にして、主に信頼するなら守られるとある。まず自分が人目を気にし、恐れる者である事に気づく時に、助けを求めて祈りに持って行ける。

 

祈って行く時に、御霊は生活の中で具体的に示し、導いて下さる。相手の嫌な言動に振り回されずに、御霊の導きに従い続ける時に、自分自身は平安にされる。相手は変わるかも知れないし、変わらなかも知れない。しかしそれを続ける中で、自らは主の平安内を歩める。そして少しずつ人の目から自由にし、解き放って行って下さる。

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人を恐れているとしっかりと認めていたい。簡単に人の流れに飲み込まれる。人の支えも必要だが、本当に神の恵みのみに頼っているか。逆にならないよう祈っていたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係