「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」 ピリピ4:4

 

 この前の箇所で、ユウオデヤとスントケに、主にあって一致するようにと勧めている。教会宛の手紙に、個人名を出してまで勧めている。どのような状況で、どんな問題があったのかは、記されておらず、わからないのだが、争っていたのか、一致が無かったようだ。周囲にも彼女たちを助けるようにと懇願している。

 

そしてそのような中で、「喜びなさい」と繰り返し二度も言っている。状況的には決して喜べない問題のさ中にあって、状況がうまく行っているから喜ぶのでなく、「主にあって」喜べと言う。ラッキーな事、ハッピーな事があれば、誰でも喜べる。だが、誰しも悩みの中では、重苦しく、どうしても悲観的になり、暗くなり、沈み込んでしまう。

 

教会内でも仲違いがあり、喜びとは全く逆の感情に向かってしまう。しかし、主にあって、信仰によって喜べるのだと。そして「寛容な心をすべての人に知らせよ」と。十人十色で、十人いれば、皆、意見は違い考え方は違い、好き嫌いも違う。生い立ちが違い、境遇が違い、価値観が違うから当然だ。

 

しかし皆、背景の違う人々が、主に在っては一致できる。主は一つ、信仰は一つだから。自分の思い、肉の思いを捨てて、主の御心を求め、御言葉を求めるなら、そこに一致がある。そしてそこに立つ時に、違う人々が受け入れ合える。そして、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもって」祈れと。

 

ことごとく問題を、悩みを、そのまま主のもとに持って行き、主に打ち明けてよと。何があろうと、いっさい思い煩わなくてよいとは、何という恵みだろう。今、抱えている問題をそのまま主に持って行こう。

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人の営みを見ると一致できないのはお互い様ではないか。主にあって全ての人が結び合わされている。教会が与えられて、世の未信者の群から集まる兄弟姉妹が与えられている事は何と感謝だろう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係