「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」マタイ23:26

 

 主は、パリサイ人に対して、非常に厳しい言葉を語られている。「杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱい」「忌まわしいものだ。パリサイ人・・」「偽善の律法学者、パリサイ人」「外側は人に正しいように見えても、内側は偽善と不法でいっぱい」・・と。主は、彼らが悔い改めることを望んでおられた。

 

主は内側を見られるので、幾ら外側をきよめても、何にもならない。主が喜ばれるのは、内側の罪深さ、醜さ、憎しみ、妬み、高ぶり、偽りを認めて、悔い改めることだ。だが、パリサイ人は外側だけを、行いだけを問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外側から見ることができるが、しかし、自分自身もまた、容易にパリサイ人になってしまう。

 

人からどう見られるかを、外見が非常に気になって仕方がない。嫌われたくなく、良い人に見られたいので、無意識にも、良い人に振舞ってしまう。人目を気にして、繕ってしまうと、良い人でも何でもない自分を、良い人だと思い違いしてしまう。そして、どんどん高慢になって行ってしまう。しかし、真実の自分は、妬みや憎しみ、裁き、赦せない思い、怒り、いら立ちでいっぱいだ。

 

それならパリサイ人と同じになってしまう。主は、絶えず自分自身の本当の姿を教えようとして下さる。礼拝メッセージや、学びや、デボーションの御言葉を通して、本当の自分を照らし出して下さる。悔い改めを与え、赦しきよめるためだ。そして偽善に陥る事から守って下さるためだ。

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内側の霊的な部分はどうだろう。主にあって潤っているだろうか。主と同じように自分の内側に最大の関心を払おう。よく祈って、主との交わりの中で闇に気づかせてもらおう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係