当時、目の見えない人々は、仕事など無く、道ばたに座って、道行く人に恵んでもらわなければ生きて行けなかった。物乞いで、生活をしていた。又、生活面だけでなく、神殿に入ることができず、礼拝することもできなかった。そこにも差別があった。何重もの苦しみの中にいて、何の希望も無かった。
目が見えなかったので、通行人の言葉や、道ばたで話す人々の言葉に敏感に耳をそば立てていた事だろう。そんな中、主の様々な噂を、主のみわざを耳にしていた。主が通られると知るや、大声で「わたしをあわれんで下さい」と叫んだ。周囲の人々がたしなめても、ますます叫んだ。一生に一度のチャンスだ。これを逃せば、もう機会は無い。必死で求めた。
主は立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた。「目が見えるようになることです」と答えた。求めが、明確に、はっきりとしていたので、即答できた。心の内にずっと培われていたものだろう。もし、当たりを行き交う人に「何をしてほしいのか」と聞かれたなら、目が見えるようになどと言わないだろう。不可能なのだから。
しかし「ダビデの子」「主」にはそれができると信じたから、叫び求めた。「あなたの信仰があなたを直したのです」と。彼はたちどころに目が見えるようになった。主への求めに、主にはできるとの信仰に答えられた。そして、神をあがめながら、主について行った。彼の真の求めは、全身全霊で、主を礼拝することであった。
-----------
いかに盲目であるかを認めて、主をはっきりと見えるようにと求めていきたい。受けた恵みより主を感謝できる。日々、主を求め、心から主を愛し礼拝する者になろう。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係