「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので・・」ローマ12:7

 

その前の節に、「思うべき限度を超えて思い上がってはいけないとあり、続いて「分け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深い

考え方をするように」とある。「思い上がる」というと、偉そうに、いばって人を見下したような姿を思い浮かべるが、ここによると、思うべき限度を越えた態度だと。そして信仰の量りに応じて慎み深い考え方をしないことになる。

 

それが高慢で、不健全な態度だと。本当の慎み深い考え方とは、それぞれに与えられた霊的賜物を用いて、主と人々に仕えて行くことだと。つまり「慎み深い考え方」は、「いえいえ、自分などはダメで、何もできない」と卑下して考える事ではなく、自分に与えられた賜物が、主から与えられたものと感謝して受け取り、それを主のために、人々のために用いて行くことだ。そこに豊かな祝福がある。

 

又、私たちは、「信仰の量り」によって、物事を見て行く。人間的に、肉の判断で、この世の価値観で見るのでなく、御言葉を鏡として、自分を見、御言葉に照らし出して、物事を見て行く。この世では、内側は見えず、外側しか見えないので、その外側を良く見せようとひたすら繕って行く。人にどう見られるかが重要だ。

 

しかし信仰による考え方は、見えない内側も正直に、ありのまま認めて、主に委ねて行く。「愛せません」「信じる事ができません」「従う事が難しいです」・・その時、そのままの自分が受け入れられ、愛されていることを実感として知る。そして出来るようにされることを経験して行く。

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人の評価によって高ぶったり落ち込んだり。自分の勝手な物差しは無用だと教えられる。信仰の量りは、人にも自分にも誠実に向き合うようにさせられる。自然に慎み深くさせらていく。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係