「人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2

 

 ある人の子供が、学校へ行きにくくなり、休みがちになったと思うと、とうとう不登校になってしまった。親も最初は何とか行かせなればと、焦った。励ましたり、少し背中を押してやったり、それこそなめたり、すかしたりと、ありとあらゆる事をした。しかしどうやっても、登校する気配は全く無かった。

 

親として連携も大切と、学校にも連絡を密に取り、担任ともよく話し合った。出来る事は何でもしようと、子供の友人関係の親御さんたちとも連絡を取った。親として出来る事は一生懸命に労したのだが、事態は、全く何も動かなかった。自分に出来る事はすべてし尽くし、しかし何一つ変わらず、徒労感におおわれた。

 

疲れ果てて、主のもとへ行き、長く祈った。心の何もかもを吐き出すように祈った。主との交わりの中で、心探られた。表に出た状況の問題でなく、自分の心の中を見せられた。プライド、人の目を気にする虚栄心、自我が照らされた。今まで全く気づかなかった自分の姿を見せられて、心から悔い改めた。

 

すると今までの心の重苦しさ、悶々が消えて、心が平安にされ、解放された。そして不思議だが、行っても行かなくてもいいと、思えた。ノウハウとして、行かなくてよいと言うのでなく、心底そう思えて自分でも驚いた。少し前まで、何とか手を尽くして、どうあっても登校させようと必死だったのに。心が新たにされ心から感謝した。すると子供が登校し出した。自分の問題でもあったと、主に感謝するばかりだった。

 

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今までも苦しみ、悲しみ、様々な試煉があったが、一つ一つが取り扱いであり、ご計画であり、万事益の通りだった。その益が、御子のかたちに変えられて行く益であり、自分自身が主を知って行ける恵みであったことに感謝だ。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係