「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただ繰り返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」 マタイ6:7

 

 続いて「御父は、お願いする先に必要なものをすでにご存じ」とある。では、すでにご存じなら祈らなくても良いのではと思いそうだが、そうではない。これは偶像への祈りのように、同じ言葉を延々繰り返し、言葉数の多さ、祈る時間の量、そういう問題ではないとの指摘だ。

 

言葉数が多い者勝ちなのではないし、言葉数の多い順に聞かれるのではない。だから単なる繰り返しは益無く、無駄だと。この世の偶像と違い、御父はすでに必要を何もかもをご存じなので、知らない相手に対するごとく、くどくど説明する必要はない。しかし主は続いて「だから祈りなさい」と言われた。ご存じだから祈る必要がないのでなく「祈りなさい」と。

 

偶像と違い、御父とは信頼関係にあり、愛の関係であるからだ、祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯すべての必要を完全に保障するから、いっさい語るな」と言う親などいない。親は子供の話す言葉を喜び、いつも対話がしたい。親は子供を愛しているので、交わりは喜びで楽しみであるからだ。御父は、私たちとの交わりを喜ばれる。

 

又、御父は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真の必要をわかっておらず、的はずれに求めていて、気づかない。自分の栄光、欲のために求めていながら、わかっていない。主はそれらを祈りの中で軌道修正し、導いて下さる。祈りの中で、自分自身が変えられて行く。

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自分の願いだけを一方的に語ってしまいがちだが、主が既に備えてくださっている最善のものがある。私にとっての最善に気づけるように一つ一つの祈りを主との密な交わりの時として大切にしたい。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係