幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」詩編32:1

 

 私たちが主を信じた時に、御霊の内住が与えられた。しかし肉が取り除かれるのではなく、御霊の願いと肉の願い、新しい性質と古い性質のどちらもがある。どちらもが私たちを引っ張る。激しい戦いを経験する。私たちはクリスチャンになったからと言って、自動的に罪を犯さなくなるのではない。信仰生活は、オートマチックではない。

 

信仰が進むほど、むしろ罪がますますわかるようになる。以前は罪だとわからなかった事が、見えるようになる。自分の罪深さをますます知るようになるのは、御霊の働きだ。地上にいる間、二つの性質が葛藤し、あらがいながら成長して行く。光があるから罪がわかる。暗闇の中で、黒点は見えない。光である主に近づけば近づくほど、罪がわかり、自分の肉がはっきりと見えて来る。

 

御霊により、初めて闇がわかる。ダビデは姦淫と殺人の罪を隠ぺいしていた。その時は、「一日中うめいて骨々は疲れ果て、骨髄は、夏の日照りのようにかわききった」と言っている。罪を隠して、認めない心は苦しくあえぎ悶々状態だった。肉は強く、そこにサタンも働いてくる。牢獄に囚われの身だった。とうとう主の御前に告白し、悔い改めた。

 

「あなたは私の罪のとがめを赦されました」。赦された安堵と平安が心に広がり、踊り上がるような喜びを経験した。あれほど苦しかった心がすっきりした。闇が消えた。御霊は罪を示され、悔い改める時、その罪は完全に赦され、自由にされて行く。そして主の似姿へと変えられて行く。

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自分の罪に気づくのも御霊の導きなら罪を赦されたと教えてくれるのも御霊の導きだ。神の前に赦された、それ以上の安堵があるだろうか。赦しという御恵みを受けて主を賛美して歩める。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係