信仰生活において、時に信仰のテストが来る。ラザロが死んだ時に、主は「ラザロはよみがえる」と言われ、墓へ行かれ、墓に立てかけてある石を「取りのけなさい」と言われた。死後四日を経ていたので、マルタは「もう臭くなっておりましょう」と答えた。理性と常識で考えるなら、死後、腐敗が始まっている。
その時に、主は「『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る』、とわたしは言ったではありませんか」と言われ、その言葉に、彼らは墓の石を取りのけた。そして主の栄光を拝する事になる。ペテロは、主に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。しかし常識と理性では、朝に魚はいない。そのため夜を徹して漁をする。
が、昨夜の漁では一匹も魚がとれなかった。信仰のテストだった。主の言葉と見える所が正反対だ。どうすればよいのか。だがその時、ペテロは「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と常識では考えられないが、主の言葉の方に従って網をおろした。すると手助けが必要なほどの大漁であり、驚くほどの祝福であった。
私たちにもテストが来る。信仰を練り、堅くするためだ。見える所と御言葉が異なる時は、御言葉の方を選び、従ってみると、必ず主のみわざを見る。信仰が成長へと導かれる。従ってみて初めて経験する事だ。あなたにもテストが臨んでいるだろうか。主の示しに一歩踏み出し、沖へ出て、網を下ろそう。
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見えはじめたら急いで行きます、の信仰ではないだろうか。信じるなら神の栄光を見るとの主の約束に素直に従いたい。主の栄光を拝するために信仰のテストを逃さず主への信頼を増し加えていこう。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係