「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありませ ん」マルコ7:15

 

 この世の考え、生まれつきの価値観では、外側から入るものが、人を汚すと思う。生い立ちが不幸だった、酷い環境だった、社会が悪い・・だから、子供は非行に走り、大人は犯罪を犯すと。環境さえ良くなれば、社会さえ良くなれば、人間は良くなる。悪い影響を取り除けば良いのだと。しかし、たとえ良い親で、親が愛情を持って育てても、人は罪人であり、ある人は自分の欲望のために生きる。

 

聖書は正反対のことを言う。環境が人を汚すのでない、環境は人を汚すことができないと。人は罪を犯したから、罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのだと。環境が良ければ、善人になるのではない。「義人はいない。ひとりもいない」、環境は関係無く、人の心から出るものが人を汚す。

 

「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。様々な問題がぶつかり合い、争いが起きる。それらは、関与する人々の心から出て来る問題だ。すべてが内側から出て来て問題を起こす。心に原因があり、内側から出る「罪」が人を汚す。

 

主は、そのところに十字架で解決を下さった。主の流された血潮によって、私たちの心も良心もきよめられる。主は罪を赦し、心をきよめて下さる。そして自我まみれの古い人は、キリストと共に十字架につけられたと。信仰によって受け取って行ける。主の血潮によってのみ、私たちの内側はきよめられる。

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清くなりたいのと清いのは違う。誰かのせいにできない内側の問題を主は十字架で取り扱ってくださった。頑張って清くなろうとする傲慢さに気づいていたい。心が主から遠く離れてしまう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係