「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいでは、それが何になりましょう」ヨハネ6:9 

男だけで五千人、女、子供を入れると倍以上という、大勢の空腹の人々を前にして、主はピリポを「試された」とある。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」、「どうしようか」と。するとすぐにピリポは、手にある所持金で計算した。答えは、こんなに大勢の人々に「不可能」だった。「足りません」だった。

 

アンデレは、あるいは、主は何かして下さるのではと思ったので、弁当を持っている人を探し回った。すると一人の子供が小さな弁当を持っていた。が、こんなに大勢には、焼け石に水だ。これが何になろう。到底無理、だめだと思った。一万人以上の群衆に、食べ物が無い、所持金も間に合わない、このような状況で、主は「しようとしていることを知っておられた」。すでに、解決策を持っておられた。

 

あなたが今、どうにもならない、このような窮地にいるなら、主はすでに「しようとしている事を」ご存じだ。主にはできるという「信仰」を私たちに求めておられる。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。そして、「小さな」ものを用いられる。五つのパンと小さい魚を二匹だ。今、不安な状況にあるだろうか。新しい環境、仕事、奉仕を前に、自分は取るに足りない小さな者だと思うなら、主はその「小さな」者をこそ用いられる。

 

たった五つのパンと二匹の小さい魚が、主の手に握られる時、大勢の人々への大きな祝福として、用いられた。そして何と全員が十分食べて満腹した。どんなに小さくても問題無い。その「小さなもの」が主の手に渡るかどうかが問題だ。何か示されているだろうか。その小さなものを主のもとに携え、献げよう。どんなに用いられるかは、驚くばかりだ。 

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あれがないから、これがないからと足りないところに目が行く時は豊かに用いてくださる主に求めよう。どんなものをも主は用いてくださる。主のご計画を信じて立とう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係