まことに、あなたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」ルカ4:24

主は、生まれ故郷のナザレに行かれた。安息日に会堂に入り、教えられた。イザヤ書の言葉を読まれ、「わたしの上に主の御霊がおられる・・貧しい人々に福音を伝えるようにと。捕らわれ人には赦免を、盲人には目を開かれる事を、虐げられている人を自由にし・・」素晴らしいみわざだ。そして「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現した」と。

 

何千年も前からの預言が、今日実現し、メシアが今、ここにいると。聞いた人々は、主の口から出る恵みの言葉に驚き、感動し、主を誉め讃えた。しかし同時に「ヨセフの子ではないか」と蔑む。ガリラヤのナザレは小さな村だった。そこでは、主はヨセフの子、この人は大工としか、人間的見方でしか見ずに、信仰の対象ではなかった。そのため主から神の言葉を聞く事ができなかった。

 

「ヨセフの子」「この人は大工」との言葉は、人々の心から恵みを奪い取り、消し去ってしまう。メシヤとして受け入れないので、御言葉が心に入らず、信仰が生まれる事が無かった。預言者は誰でも、自分の郷里では歓迎されないと、主は人々の不信仰を嘆かれた。私たちもどうだろう。

 

自分の価値観、自分の見た目、自分の判断で、御言葉に対応する時に、同じように受け入れる事ができずに、肉で判断してしまう。「そんな事、あり得ない」「無理だ、不可能だ」「世の中、渡って行けない」。自分の思いの方に立ってしまう。そこに気づける事は御霊の働きだ。御言葉に立って行けるよう、御霊の気づきが与えられるよう祈っていよう。

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初めて主を知った時の様にいつも心に新しく御言葉を受けとめ、受け入れていこう。御言葉に肉の思いが被ってくる時に、いや違うと気づきを祈ろう。御言葉が聞いた通りに実現したと喜んで言いたい。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係