「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」ルカ15:13 

父のもとが窮屈で嫌だった弟息子は、家を出た。父のもとを去り、放縦を自由とはき違え、放蕩三昧をした。父からの財産を使い果たした後、食べる事に困窮し、戻って来た。父はこの息子を「死んでいたのが生き返り」と言った。家出する以前に、ずっと父のそばにいた時から死んでいたと。父との関係はしゃ断されていた。

 

父はどんな時も決して変わらない愛で、息子を愛し続けていたが、息子の心は父から離れてしまっていた。身体はそこにいたが、心は無かった。父には、それがわかっていたので、息子の望むようにさせた。息子は、気ままに、好き放題をし、放蕩の限りを尽くし、行き着く所まで行った。

 

身を滅ぼし、どん底で我に返った。このままでは飢死してしまう。父のもとへ帰る決心をした。私たちもどうだろう。御父を離れて、自分の思いで、好きなように、欲望に生きてしまう。罪を犯すと、なかなかすぐに帰れない。どの面下げて帰ればよいのか。少しましになってから帰ろうと思う。しかし父が喜ばれるのは、息子が帰ったことだ。

 

「祝おうではないか」、父は、息子の帰りをひたすら待ち、待ち続け、見つけるや、父の方から走り寄り、抱き、口づけした。その時、息子に真の悔い改めが起きた。息子は生き返った。父は待ち続けている。強制的に連れ戻すのではなく、ただ待たれる。愛は自発的、自由意志だ。私たちは何度も離れてしまう。しかし父は両手を開いて待っておられる。どんな時でも立ち返ることができる。

 

・・・・・・・・・・・・・

父親はずっと待ち続け、心がそこに集中していたので遠くの息子がわかった。一言も責めず、大喜びで迎える。この世には無いので、一見、非常識なまでの愛だ。私たちの主に、私たちはこの愛で愛されている。主はずっと待っていて下さる。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係