祭司エリがサムエルを養育していたが、ある日、突然、少年サムエルに主の御声が臨んだ。エリの指示を受け「お話し下さい。しもべは聞いております」と答えた。すると、その最初の主からのメッセージは、何とエリの家への裁きであった。「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事をしていながら戒めなかった罪による」と。
非常に厳しい、つらい言葉であった。相手は自らの師であるエリだ。サムエルはエリに語ることを恐れたが、しかし主の言葉をそのまま伝えた。預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にその通りに民に語る人のことだ。どんなに痛い厳しい言葉であろうと、その通りに語らねばならない。
これから預言者として立てられるサムエルへの、最初のテストであったかも知れない。私たちも「しもべは聞いております」と主に向かいつつも、自らの罪を示され、自らの肉の姿を照らし出される痛い言葉、又、自分のプランと異なる言葉、矯正の言葉は耳をふさぎたいだろうか。
しかし痛い言葉こそが、実は聞くべき恵みの言葉だ。それは愛の言葉であり、自分が変えられ、自分を主のかたちへと成長させてくれる言葉だ。主は、絶えず御声をかけ、慰め、励まし、力づけて下さる。私たちは主の言葉によって生きて行く。「しもべは聞いております」とのへりくだった姿勢で、耳を傾けよう。
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自分の欲しい言葉があるなら、無意識にもそれに反する言葉はしゃ断、スルーしてしまう。無意識なので気づかない。まず自分の思いを明け渡して、身を委ねて、御霊の導きに耳を傾けたい。思いに反する言葉でも、必ず自分自身の祝福と益と成長とされる。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係