「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」マタイ5:10

信仰者は、信仰ゆえの苦しみ、迫害や試練があると、御言葉は言っている。だが間違ってはならないのは、自分の弱さ、至らなさ、欠点、自分の罪ゆえ問題を起こし、苦しみを招く事がある。これは自分の問題であり、信仰ゆえの苦しみではない。信仰以前の問題だ。弱さや至らなさがあるなら周囲に迷惑をかける。

 

それではなく、クリスチャンという事で苦しみを受ける事がある。迫害されたり、笑われ、嘲られたり、仲間はずれにされたりと、不当な苦しみを受ける。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今の時代なら、信仰ゆえに陰口を言われ、つらく当たられ、仲間はずれにされ、だろうか。「ありもしないことで悪口を言われ」る、それは理不尽な苦しみだ。

 

しかしそれがキリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。むしろこの事のゆえに喜べと、幸いだと。そして神をあがめるようにと。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天において受ける報いは大きいのだから」と。その人は、たとえ主のために辱めを受け、攻撃されたとしても、主との個人的な関係があるので、幸せな人だ。苦しみの中にあっても喜びおどる人々だ。内なる喜びが与えられているからだ。

 

どんなに自分が罪深いかを知り、そしてその罪が完全に赦されている事を知っている。どんな愛で愛されているかを知っている。どんなに苦しい時にも、主が共におられることを知っている。そして天において大きな報いがあり、その報いを期待せよと。それゆえ苦難に意気消沈するのでなく、「喜び、喜びおどれ」と。

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主を喜ぶ事は大きな力だ。世の人々と主を知る喜びを共有できない事は辛く悲しいがその思いもまた主が知っておられる。どんな場面にも恵みを見出し喜び感謝を表していこう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係