「供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23

私たちの古い性質は、自分の誤りを認めたくないものだ。間違っているとわかっていても、認めたくない。肉のプライドだ。不和の相手がいると、相手が謝るなら、こちらも謝ってもよい、相手が変われば、こちらも態度を変える気持ちはあるのにと。自分から「ごめんなさい」とは言いたくない。出来るなら、謝らずにうまくうやむやに済ませたい。

 

又は、親切な行いで、差し引きゼロにし、自分の良心のとがめもなだめたい。そして礼拝や奉仕が逃げ道になり、それで埋め合わせをしようとする。だが、主はそれは喜ばれない。主に罪を犯しているなら、罪を告白し、人への罪なら相手に謝まる必要がある。悔い砕かれた心を喜ばれる。先延ばしにしている和解や謝罪があるだろうか。

 

人を憎んだまま、主への献げ物は受け入れられない。礼拝への途上でも、供え物は置いたままにしてでも、仲直りの方が大切だと言われている。先にそれをしてから礼拝を献げよと。謝罪はプライドゆえ逃げたい。自分は主からの赦しを受けながら、赦そうとしない相手がいないだろうか。人との正しい関係は大切だ。そして「誰かに恨まれている」なら、自分から仲直りのために出て行くようにと。

 

「恨まれている」のであって、自分が「恨んでいる」のではない。しかし、恨まれている自分の方から赦しを請うようにと。そうする時、御霊は助けて下さる。世の喜びではない、御霊の喜びと平安を経験する。自分の力では出来ないので、まずそう出来るよう祈ろう。

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恨まれている事を思いださせてくださったのも主ではないか。主の恵みの中で自分の状態を知らされた。主の導きに委ねて従えるように祈ろう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係