「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた」」 申命記8:3 

 「主は、苦しめ、飢えさせ」とあり、他でもない、主が「苦しめ」「餓えさせる」と言われている。信仰人生で、種々の悩み苦しみに出会う。他の人は幸せそうなのに、自分は、たまたま苦しみにあったように感じてしまう。「何で?」と。又、人との関わりでの苦しみは、相手のせいにしか思えない。相手が~~だから、こうなっていると。そして「何で?」と別の悩みに襲われる。

 

信仰するなら、祝福して下さるはずではないのか。その祝福とは、病気にならず健康で、商売は繁盛で、畑は豊作で、受験は合格と思っているので、病気やけが、不作、不合格、経済的苦境、嫌な対人関係は、祝福されていないと思ってしまう。しかしたまたまでなく、「主が」あなたを苦しめ、飢えさせ、とある。

 

それは、人はパンだけで生きるのではない、主の口から出る御言葉で生きることを、あなたにわからせるためだと。人は順境の時には、主を求めず、自分で生きて行く。頼る必要が無いからだ。主を頼らずとも、自分の力で十分やって行けてしまうからだ。どんな時に主を心底頼るのだろう。自分の力ではどうにも出来ない時だ。

 

無力の極みの時こそ、主にすがる。だが「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」、どんな中でも完全に守られる。そして「ついにはあなたを幸せにする」、必ず良い地に導き入れられる。苦しみの時には天からのマナがあり、主を深く知って行く時とされる。

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慰め、平安をくださいと祈る事しかできない時に不思議と今まで味わった事のない平安が与えられる。逃れようのない苦しみとしか見えなかった目が神中心に変えられている。主のお取り扱いを思う。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係