「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた」マタイ14:25

有名なペテロの海上歩行の箇所で、主は、弟子たちを「強いて」強制的に、舟に乗り込ませられた。弟子たちが自分で選んだのではない。夕方、沖へこぎ出したが、その途上で嵐となり、波と風で荒れ狂った。夜の真っ暗闇での嵐は、何も見えず、どんなに恐怖だった事だろう。信仰人生において、嵐は避けられない。風雨も洪水も、日照りも飢饉もある。

 

人生には順境と逆境があり、逆境は必ず来る。主が与えられる。それは世の人々と同じだ。しかしどこが違うのか。その嵐のまっただ中に、来て下さる主がおられる。必ず嵐に会うが「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」との主が共におられる。何と心強いことだろう。

 

私たちが、試練のまっただ中で、不安と恐怖の中にいる時、又、つらさと苦しみ、寂しさと孤独の中にいる時、「わたしだ」と言われる主がおられる。その主は、荒れ狂う湖の上を、物ともせず歩いておられる。私たちの問題や悩み、困難の上を歩いておられる。

 

小さな女の子が、二階の部屋にあるおもちゃを取りに行くのが、怖くて仕方が無かった。親に幾ら大丈夫だからと言われても、怖くてどうしようもない。その時、父親が「じゃあパパが一緒に行こう」と言った時に、女の子は全く恐く無くなった。恐れがきれいに消えた。

 

私たちの平安は、悩みや問題が無い事ではなく、平穏無事、無風にあるのではなく、どんな悩みが逆巻く中にも、主が共におられることにある。ここに全き平安がある。その主は、絶えず御声をかけて、私たちを慰め、励まし、導いて下さる。

 

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どうしても環境に依存し、平穏無事が平安だと思ってしまう。が、そうでなく、インマヌエル、主共にいます事こそが平安だ。大嵐の中で、主の言葉が心をなぎにしてくれる。今の非常事態の中で「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語り続けられている。

 

  発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係