「約束のみことばはこうです『私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます』」ローマ9:9

アブラハムは、75歳の時に「生まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け。大いなる国民とし、祝福する」との召しに従い、カナンに向けて出発した。だが、一向に子供のできる気配は無く、やがて、しもべエリエゼルを相続人にと考えていた。「子孫を下さらないので、家の奴隷が跡取りになる」と。

 

すると主は「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が継がねばならない」と。主は彼を外に連れ出し、子孫はこの星のようになると、天を見上げさせ、満天の星を見せられた。その時、「彼は主を信じた」。彼は、神の約束を信じた。現に子供はまだ与えられず、気配もなく、常識的にも、見えるところでは受け入れ難い事だった。

 

しかしアブラハムは、神を「信じた」。状況でなく、神ご自身を信頼した。「望みえない時に望みを抱いて信じた」。望み得ない時に望みを抱くからこそ、信仰だ。見えないから「信仰」なのであって、目に見えたなら信仰は必要ない。人間の五感による実感など、全く無い中、御言葉だけが頼りだった。状況を、目に見える感覚を頼るなら、どこを見ても信仰など湧かない。目の前の状況から出す結論は「不可能」だ。

 

その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。それが約束の御言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ直ぐ受け取る時、「彼の義とみなされたと書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです」。私たちも、アブラハムと同じ祝福にあずかる。

 

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「みことばはこうです」と、みことばの下に自らを置き。みことばを握り、サタンに立ち向かうなら、サタンは逃げ去るとある。「何も思い煩うな」「わたしだ、恐れることはない」と言われる。状況でなく、み言葉の方を信じて、主の平安の中におらせて頂こう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係