「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」 ヘブル3:7 

 

主は、乳と蜜の地に導くと約束して下さったのに、民は入る事が出来なかった。不信仰のゆえだった。導き入れるとの、主の言葉を聞きながら、信じる事なく心を頑なにした。「もし御声を聞くならば・・心を頑なにしてはならない」の通り、御声を聞くなら受け入れる必要がある。もし、語られた言葉をないがしろにしているなら、心はそのままでなく、更に固くなって行く。ますます頑なになって行ってしまう。

 

私たちはどう聞いているだろう。主が御言葉を語られた時も、聞く人の心の態度は様々だった。素直に受け入れる人、単に好奇心だけの人、反発する人、聞き流す人・・。又、石地のように、喜んで聞くのだが、根ざそうとすると、岩である自我にぶつかる。すると自分の肉の思いの方を通して行くだろうか。

 

そんな心が耕される必要がある。頑なな心が、すきやクワで耕され、砕かれる時、素直にされる。砕きは祝福だ。御声を聞く時、主の言葉を、その通りにそのまま受け止め、信じて行く事が信仰だ。この世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなものとする。私たちは、目に見えない御言葉を真実なもの、確かなものとする。

 

そして、その語られた御言葉を、行って行く事が大切だ。実行して行く時に、初めて御言葉が身につき、培われ、そして必ず豊かな実を結ぶ。私たちはどうだろう。ただ聞き流しているだけだろうか。それなら御言葉を捨てている事になってしまう。心して受け止め、そして今、目の前に示された御言葉に一歩従おう。実行しよう。その時、素晴らしいみわざを見て行く。

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本当に聞くだけで従えない者だ。目に見えるもの、聞こえてくる声に思いは簡単に流れてしまう。真に価値のあるものに従いたい。語られた御言葉を心に留めて従ってみよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係