「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17

エデンで、アダムとエバは罪を犯した。その時、主はアダムに「あなたは・・食べたのか」と問われた。それは愛ゆえに、悔い改めの機会を与えるためであった。アダムは「ごめんなさい。食べました」と罪を認める事ができた。だがアダムはそうせずに、エバのせいにした。「この女がくれたので、食べた」と。

 

更に「あなたが私のそばに置かれた女」と神のせいにした。有名な責任転嫁だ。「あなたのせい、あの女のせい、あなたが悪い、あの女が悪い」、そして自分は悪くなく、被害者だ。ダビデも姦淫と殺人の罪を犯したが、ダビデはその後、悔い改めた。その時、自己正当化も、バテシバへの責任転嫁もせず、弁解、言い訳せず、ダビデは悔いくずおれた。ダビデは砕かれた。

 

ダビデは主の御前だけでなく、人々の前にも罪を隠さず、体面やめんつに関係なく罪を認めた。王であり、トップであり、なかなか出来る事ではない。ダビデは、主の御前に、人々の前にへりくだった。主は、砕かれた悔いた心をさげすまれない、軽しめられない。豊かに祝福して下さる。

 

「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」。自分の罪を悲しみ、心から悔い改める魂に、主は大変近くあられる。傷を包み、苦しみから救って下さる。

 

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罪を犯しても、結果がまずかったので、後悔はするが、悪いとは思っていなかったりする。仕方が無かったと自己正当化してしまう。そうするなら、何も変わらない。主が喜ばれるのは、悔い砕かれ、悔い改めること。その時、赦され、新たにされ、変えられて行く。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係