「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した」ヨネ5:9

ベテスダの池で、病で38年も伏せっている人に、主は目をかけられた。そして問われた、「よくなりたいか」と。気の遠くなるような長い年月になると、気持ちが萎えて、気力が失せてしまう。しばしばよくなる事を諦めてしまう。又、38年も病気だった人が、突然、健康体になったならどうだろう。

 

今まで、人は同情してくれ、伏せったままで良かった。しかし当然働いて、社会生活をして行かなくてはならない。仕事を探し、住まいを探し、突然多くの責任が生じて来る。今まで伏せっていた者にとって、大きな喜びの反面、非常に厳しい現実が待ち受けている。

 

私たちにも、主は「よくなりたいか」と問われる。今まで何度やってもダメだった。これからも失敗すると諦めているだろうか。自分の内にそんな部分があるだろうか。よくなるために、主はまず私たちの弱さを直視させられる。弱さを、惨めさを認めたくない。痛くて突き詰めたくない。あいまいにしていたい。

 

又、主に真剣に従って行こうと決心するなら、払うべき犠牲に気づいている。その犠牲は困る。そのため、よくなりたくないのだろうか。「よくなりたいか」は、自分自身の内のあいまいにしている部分に、光が当てられ探られる。

 

又、内側の醜さ、嫌な部分は認めたくない。良い人でいたい。主は良くして下さるために、自らの内側を直視させられる。逃げずに、認めて行くなら、変えられ、成長して行ける。長年、引きずっている重い問題、悩み、そのところをいやし、自由にして下さる。

 

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よくなりたいのは、当たり前のように思うが、様々心の内を照らされる。自己憐憫の中に浸っているのは、楽だったり、弱さを見たくなく、認めたくなく、逃げていたかったりする。主のもとに自由があり、喜びがあり、癒やしやしがある。主の問いかけに答えて行きたい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係