「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3

私たちは、恵みのゆえに信仰によって救われた。救われるために、何もせず、何も出来る事はなかった。行いによるのではなかった。十字架の贖いを信じただけで、救いを受けた。一方的な恵みによることであった。それはよくわかるのだが、救われた途端、行いによって生きてしまう。救いは恵みだが、後は自分の力で善行に励もうとする。

 

今まで生きて来た根深い価値観があるからだ。頑張らねばならない、頑張りが善の価値観だ。そのため恵みは頭ではわかるのだが、根深く培われたものによって、動かされてしまう。ガラテヤのクリスチャンは、救われた後、割礼を受けねばならないとの、ユダヤ教に戻ってしまった。

 

しかし「もし、割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって何の益もない」と。行いによって義と認められようとするなら、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったと。自力による行いは、今までの生き方なので、身にしみついている。自分の頑張りに頼る。頑張って聖書を読み、頑張って祈らなければ、善行をしなければ~~と。

 

すると段々、信仰生活が、窮屈で息苦しくなる。又、自分はだめだと落ち込んで行く。だが肝心な事は、もし聖書を読めず、祈れなくとも、神の愛は変わらない。なぜなら神のご性質が愛であり、その愛は不変だから。その一方的な主の大きな愛を知る時に、このまま愛されている事を知る時に、深い安堵に包まれ、聖書を読んで、祈りたいと自発的に思える。

 

その時、恵みの下にいる。肉の頑張りでなく、主の愛を信じ、御霊によって歩む時、恵みの中に置かれ、そこには喜びと自由、平安がある。今、もし信仰生活が重苦しく、窮屈なら、立ち止まって、主と交わろう。主に向かい、ありのままを告げて行く時、その時、主と交わっている。今一度、主の変わらないご愛を思い、安堵と平安が来る。恵みの下に戻れる。

 

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「その命令は重荷とはなりません」とあり、信仰生活が重荷で、窮屈で、苦しいなら、御霊で始まったものを、肉によって完成させているだろうか。主のもとに行き、そのままを告げよう。慈しんでいて下さるので、様々な気づきを与え、御霊の歩みへと導いて下さる。 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係