「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」ヤコブ1:12

「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われている。しかし「試練」は神からであり、「誘惑」はサタンからだ。源が違う。神は、誰をも決して罪に誘惑される事はない。断じて無い。悪への誘惑は神からではない。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」。

 

自らの「欲望」にサタンが誘惑を吹っかけてくる。魚が、えさにおびき出されるように、サタンは欲望に働きかけてくる。「試練」は神より与えられるものであり、試練は決して悪いものではない。むしろ喜べと言っている。「試練に会う時は、それをこの上もな喜びと思いなさい」と。試練は忍耐すべきものだ。そうする時、必ず一段階、成長して行く。

 

試練は成長のためのものだ。それは成長を遂げた完全な者にされるためとある。しかしながらその良いものである試練に向き合う際に、反抗したり、屈折したり、疑ったり、不信仰に陥ったりするなら、それは誘惑になってしまい、その結果、神から離れてしまう。向き合い方いかんによってしまう。良いものに、サタンが働いて来て、罪へと誘って行く。

 

試練に向き合う態度は大切だ。しっかりと受け止める時、成長が与えられる。そして後の日に必ず良かったと思える。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と言える。「それであなたのおきてを学びました」と。

 

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試練は、つらく、痛く、苦しい。そのままの思いを、気持ち、感情も主に告げよう。洗いざらい告げて祈っていると、不思議に心が落ち着いて来る事を何度も経験する。主が受け止めて下さっている。外側の状況は凄まじいのだが、心の奥に不思議な平安が来る。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係