「寄るベのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」箴言19:17

同じ箴言に、寄るべのない者の叫びに耳を閉じるなら、自分が主に呼ばわる時に答えられない、ともある。困窮者の必要に、目を、耳を閉じる事は、祈りの答えに関係して来る重大な事だ。祈りの生活に直結する問題だ。困っている人がいる時に、見なかった事にしてしまうだろうか。そうすると責任を感じなくて済むし、悩まなくて済む。

 

しばしば時間、労力、富、犠牲を払う事を嫌がり、面倒に思ってしまう。しかし「あなたの手に善を行う力があるとき、求める者に、それを拒むな」とある。「ことばと口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そう」「自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ」「求めるものは何でも神からいただける」。口先でなく、行いと真実をもって愛する時、求めるものをいただける。自らの祈りが聞かれて行くと。

 

祈りと関わって来る。そして何より主にとどまり、主と一つ心であるので、妨げのない御霊の喜びと平安が満ちる。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取る」「神は、あなたがたを、すべての事に満ち足りて、すべての良いわざに溢れた者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかり与えることのできる方」とある。

 

この実際を、時間、労力、富を献げて行く者が経験し、味わって行ける。私たちは何のために生きているのだろう。楽をするため、蓄えるためだろうか。主の栄光を現し、主のわざにあずかり、主を更に知るためだろうか。

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してはいけませんという御言葉には敏感になれても、しなさいという御言葉は、無理だと簡単に流していると改めて思う。与えようとして周囲を見ていく目を主に祈りたい。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係