「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24 

私たちの人生は、「主によって定められる」とある。主が定められているなら、決められているなら、努力がいっさい不要とか、将来の計画は無意味とか、そういう意味ではない。主の愛と配慮による支配があるからこそ、目標に向かって努力できるし、主と相談しつつ将来の計画を立てる事ができる。

 

又、自分の人生なのだから、がむしゃらに自分が頑張るしかない、すべて自分にかかっているのだから、というのでは無い。主が私たち一人一人の人生に最善のご計画を持たれ、自分の力ではなく、御霊の力によって歩む人生だ。

 

しかしながら、それはすべて自分の思い通りの道というわけではない。振り返っても、思い通りでない事の方が多いのではないか。そんな時に、不確かな揺れ動く自分の思いでなく、主が自らの歩みを定めて下さっていると知ると、安堵と平安にされる。

 

そして人は自分の道を理解できないと言っている。私たちは、ほんの数分先の事もわからないし、将来は全く見えない。ただ現在が見えるだけだ。だから想定外の事態は幾らでも起きる。先の事はわからないから。しかし自分には見えないが、先もすべて見通しておられる、主が共におられるなら、そこを信じて歩むなら、どんなに平安だろう。自分にはわからない先が、主の御手の中にあるとは。

 

そして気持ちを受け止めて下さる主に、どんな時でも祈る事ができる。私たちの想定外の事が起きるが、主の想定内だ。そんな時こそ落ち着いて、静まって、主を仰ごう。

 

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本当に人は、自分の道を理解できない。先の事は全くわからないし、想定外の事が起きる。しかし主は先をご存じで、私たちの人生のすべてをご存じだ。そこに立つ時に心は平安にされる。そしていつも「恐れるな」と語られ、必ず歩むべき確かな道tへと、手を取り導いて下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係