「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」ガラテヤ6:2

人が過ちに陥った時、御霊の導きのもと、柔和な心で正すようにと言っている。過ちを犯した人に、いら立ったり、自業自得と裁いてしまったり、受け入れ難くなりがちだ。自分にも、同じく肉の性質があるからだ。しかしそのままにしておかずに、その人を正してあげなさいと言う。「御霊の人であるあなたがたは」とあり、その時は、まず自分自身が、御霊に導かれている必要があると。

 

「また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」と言っていて、自分もいつ誘惑に陥るかわからない弱い者であり、同じようになっていたかも知れない。へりくだって、自分の心も探られ、まず自分の罪を悔い改め、よくよく祈り、御霊からの導きを受け取る事が大切だ。

 

その時、自分の思いや自分の力でなく、御霊がこの事を導かれているとの平安が来る。そしてよく整えられ、「柔和な心」が大切だ。ただ罪を責めるのではなく、「愛をもって真理を語」れと。愛をもって、その人の立場に立って考えることだ。相手を思いやる気持ちで接する時、御霊が働かれて、初めて相手の心に届く。御霊が、相手に罪を示し、悔い改めへと導かれる。

 

ナタンは、罪を犯したダビデに対応した。ただ責めたのでなく、例え話によりダビデに考えさせた。御霊は働き、罪がはっきりと指し示された。ダビデは悔い改めへと導かれた。もし御霊の示しがあるなら、従おう。自分の力ではなく、御霊が働かれ、用いられる。

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誰かが過ちに陥ったとしても、自分自身の弱さは重々承知している。同情したり裁かないようにと祈るばかりだ。相手の罪の重荷を共に担う御霊の押し出しがあれば、自分を捨てて従おう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係