「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり・・世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」Ⅰコリント10:11

聖書の中には、信仰者の失敗がありのまま記されている。世の一般書なら、都合良い部分だけ記し、都合悪い部分は隠す。しかし素晴らしい信仰の勇者も人間であり、失敗する。罪も過失も、そのままに赤裸々に記されている。まずアダムとエバは失敗して罪の方を選び、それは原罪となった。カインは妬みのゆえ、弟アベルを殺害した。ノアは酔っ払って失敗した。

 

アブラハムは妻を妹だと偽り、又、神の時を待てずにハガルによりイシマエルを産み出すという重大な失敗をした。ロトは肉で歩み、この世の名誉地位を愛し、娘婿も妻も滅びから救えなかった。イサクも父と同じく嘘をつき、ヤコブは父と兄を欺いた。モーセは同胞の救出に失敗し、殺人を犯して逃亡した。

 

又モーセは、出エジプト後、荒野に出た時には、主に従わず怒りで、岩を打つ罪を犯し、約束の地に入れなかった。アロンは、モーセが不在の間に、民に要求され、何と金の子牛の偶像を作ってしまった。ダビデは姦淫の上に殺人を重ね、ペテロも弟子たちも、主が捕らえられた時に、主を裏切って、逃げた。

 

主はそれら失敗を悔い改めに導き、ことごとく赦し、なおも全く変わらない愛で、愛し続けられた。どんな失敗をしたとしても、決して見捨てられる事はない。アブラハム、イサク、ヤコブは大いに祝福され、モーセは出エジプトの大役を任され、ダビデはあの素晴らしい詩篇を記し、ペテロは、後に諸教会のリーダーとして活躍した。

 

失敗した時は、問題の原因を考えよう。自分のどの弱さなのか、何に触れるのか。そうするなら同じ事を繰り返さない。主の赦しを受け取ろう。主のあわれみは尽きない。再びやり直すことができる。失敗で落ち込み、倒れてしまうのでなく、教訓として学び、前に進ませて下さる。

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人間なので、必ずミスをするし、したくはないが失敗してしまう。犯人捜しと原因をきちんと考える事は全く別だ。自分の弱さをしっかり知り、認める事で、同じ過ちから守られる。失敗から学ぶ事が大切だ。主の豊かな赦しにより、そこから前に進んで行ける。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係