「知恵の正しいことは、その行いが証明します」マタイ11:18

私たちは、しばしば人を裁いてしまう弱さを持っている。しかし私たちが人を裁くのは、相手が自分の思い通りでないからだと言われている。自分の思いがあり、それに合わないので相手を非難すると。つまりは自己中心によるものだ。

 

主は、当時の人々を、遊びをしている子どもたちに例えられた。子供たちはは、一緒に遊ぼうと他の子たちに「呼びかけ」た。笛を吹いてやっても、踊らない」。まず「結婚式」の遊びをし、楽しげに笛を吹いたが、誰も踊らず相手にしなかった。それで次に「弔いの歌を歌っても悲しまない」。「葬式」の遊びをした。これも誰も乗ってこなかった。そっけない態度だ。

 

それと同様に人々は、バプテスマのヨハネが、荒野でいなごと野蜜で禁欲的な生活していると、彼はおかしくて「悪霊につかれている」と言った。そして主が取税人や遊女の友となり、罪人と宴会の席で、飲食していると、「食いしんぼうの大酒飲み」、「罪人の仲間」だと言った。

 

結局、どちらでも批判し、何をしても非難した。つまりは自分たちの思いがあるばかりで、自分の物差しに合わないゆえの批判だった。そして自らの正しさを誇っていた。相手を公正に見て、受け入れようとの思いなど皆無だった。だからヨハネも主も受け入れなかった。

 

その時に主は、「知恵の正しいことは、その行いが証明します」と言われた。どうこう釈明せずとも、必ず主の正しさは、その行いによって証明されると。そして「そのすべての子どもたちが証明します」と。クリスチャンたちが証明して行くと。私たちが悔い改めて、自分の思いでなく、御声に従って行く時に、主の正しさが証明されて行く。

 

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いわれのない批判や非難に対して、主は、行いが証明すると言われた。誹謗中傷、無理解がある時には、いちいち反応せず、主を見上げ、主の御心を行って行けば良い。その結果、主が実を結ばせて下さって、結実により知恵の正しい事を、主が証明して下さる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係