「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」」Ⅰサムエル8:7

 イスラエルの民が王が欲しいと、サムエルに王を求めた。他の国民のように自分たちも王が欲しいと。しかしそれは、主の御心ではなかった。だが、民が「どうしても」と、何がなんでもと要求した時、主は、要求を聞き入れよと言われた。それは、サムエルを退けたのではなく、神を退けたのだと。主はサムエルに彼らに厳しく警告し、王の権利を告げるようにと。

 

しかしそれを聞いてもなお尚、民はどうしても王が欲しいと言い張った。すると主は、王を立てよと言われた。時に、自分が肉で計画した事がうまく行く。思い通りに、画策通りになる時に、これは主が成功させて下さった、主が認めて下さったのだと思うが、それは大きな誤解だ。どうしても行くというので、主は、民が自分の道を行く事を許されただけだ。

 

どれだけ警告を受けても、私たちが頑なに聞かない時、主は願う通りの道を行かせられる。自由意志を尊重され、決して強いる事はされない。そして蒔いた種を刈り取らせられる。結実してしまい、つらい、苦しい刈り取りになる。その刈り取りをも訓練とし、学ばせられる。自我を通す事が、いかに愚かであるかを身をもって知る。

 

蒔いたものは必ず刈り取る。蒔き刈りの法則だ。今、自分の道に行こうとしているなら、又、祈らずに進もうとしているなら、立ち止まって祈ろう。方向変換して御霊に従おう。御霊に従う事がどれほど祝福であり、平安な喜びの道かを知る。御霊の実を刈り取る。

 

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反対されても、何がなんでも欲しいと、どこまでも願う時、主はそれを与えられる。しかし願うものを与えられて、心はやせ衰え、虚しくなると言っている。肉の思いを通すなら、御心をそれてしまう。主に従えるよう、助けを求めて祈ろう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係