「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイ7:1

「さばくな」と主は言われる。では、「裁判」も、いっさいの「裁き」はいけないのだろうか。しかしそれは違う。主は、「何が正しいかを判断せよ」と。善悪の判断をきちんとするようにと言われている。又、「聖なるものを犬に与えるな」「豚の前に真珠を投げるな」と命じておられる。判断しなければ、主に従う事ができない。 

 

「実によって見分わけることができる」と。又、汚れたものを見分け、何もかも信じるのでなく、偽預言者を見分けよと。又、兄弟が罪を犯したなら、まず二人のところで責めよと、罪を正す事を命じている。主が「さばくな」と言われたのは、御言葉の基準でなく、自分の肉のメガネで、自分の思いや偏見、独断で裁いてはならないという事だ。

 

それは自分のメガネに合わない相手を、中傷し批判することであり、自我による裁きであり、私たちも陥りやすい過ちだ。裁く相手は、しばしば自分と同じものを持っていると言われている。自分の中の嫌な、受け入れがたいものを相手に見る。それが受け入れられず、裁きや批判となる。

 

「自分の目の中には梁がある」目の中に大きな丸太があれば、何も見えない。人の微小のちりなど、見えるはずがない。ちりの入った人は、鋭い痛みがある。丸太の入った目で、そのちりを取ろうとするなら、見えないので、更に痛みをひどくしてしまう。まず自分の丸太を取り除くことが必要だ。

 

御霊に示されて、自らの内側にあるものを悔い改める時、自らの丸太が除かれる。すると目が見えて、相手のちりがはっきり見える。その時、相手のちりを除く助けのために、御霊により用いられる。

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違っても裁き、似ていても裁くならただのあら探しだ。問題はいつも自分の中にあるのではないか。真っすぐに見えるよう、裁いていることに気づきたい。主に正直に悔い改めよう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係