「そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた」マルコ11:7

主が弟子たちに、向こうの村へ行き、誰も乗ったことのないろばの子をほどいて連れて来るようにと、言われた。「主がお入用なのです」と。当時、ろばというのは、へりくだり、謙遜や柔和の象徴とされていた。主は、このろばの子に乗って、エルサレム入場をされた。立派な力のある軍馬でなく、無力で、何の経験も無い、弱いろばの子を用いられた。

 

私たちは弱く、力が無く、何の経験も無くても構わない。私たちはろばであり、主が乗られるのであり、主をお乗せするだけだ。乗っていただけるとは、何と光栄なことだろう。主が用いて下さるのだ。ある人が、どう考えても自分には力不足である働きを依頼された。能力的に無理で、労力、時間的にも難しいと思えた。

 

祈りに祈った時に、「主がお入り用なのです」と語られ、軍馬でなく、ろばの子を用いられる、弱い、無力な者をと励まされた。信仰により、受諾した時に「イエスはそれに乗られた」と自分でなく、主が、自分に乗って成し遂げて下さると励まされ、力を受けた。「ほどいて」連れて来なさい。

 

自分の好み、自分のしたい事、自分の思い、望み、また名誉、地位、富への執着、人から賞賛を得たい欲、それらからほどかれ、解かれて、主のもとへ行こう。主が乗って下さって、用いて下さる。主に用いて頂けるとは何という喜びだろう。「主がお入り用なのです」、あなたにも語られていないだろうか。「イエスはそれに乗られた」。

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自分のしたい事は、出来る事は、と考えていくといつも力不足で息苦しくなる。主に生かされ、主に用いられるとの信仰の目で見ていくなら、思いもよらない発見や新しい希望が拡がってくる。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係