「あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って・・介抱してやった」ルカ10:33

ある人が、うっそうとした山道で強盗に襲われた。物を盗られ、殴られ痛めつけられて、半殺しにされた。苦痛にあえいで倒れていた。そこに祭司が通りかかった。祭司は、彼に、気づかなかったのでなく、知らなかったのでもなく、彼を「見た」。その結果、故意に反対側を通り過ぎて行った。様々な言い訳があったかも知れない。自分は忙しい。神殿の任務に遅れると多大な迷惑がかかる。

 

もしも死んでいた場合、死人に触れると宮の任務ができなくなる。自分が対応しなくても・・。つまり関わりたく無いので、自らを閉ざした。次にレビ人が通りかかったが、同じように、彼を「見た」。が、反対側を通り過ぎて行った。祭司が去ったのに、自分などが出る幕ではなかったろうか。急いでいただろうか。

 

そこに敵であるサマリや人が通りかかり、彼を見て、「かわいそうに思い」近づいた。動機は「かわいそうに思い」だった。傷の手当をし、家畜に乗せて、宿屋に連れて行き、寄り添い介抱した。費用まで支払い、至れり尽くせりだ。このサマリヤ人は主ご自身だ。旅人は私たち自らの姿だ。罪に傷つき血を流し、苦しみ倒れていた。

 

主が来て下さって、十字架につき、罪を赦し、癒やして下さった。主が来て下さらなければ、滅びであった。傷つき倒れた者は、全く何も出来ない。私たちへの主の一方的なご愛、あわれみだ。こんなにも愛されている。又、祭司、レビ人も自らの姿だろうか。関わりたくない事、出来ない事をありのまま認めて、祈って行く時に、主が、従えるように、御心にかなえるように助けて下さる。

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主の前の本当の自分の姿ではないだろうか。至れり尽くせりのあわれみを受けているのに、具体的な一歩がでない。主に愛されていることを覚え、御霊に満たされ歩み寄ろう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係