「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません・・あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」ヨハネ15:3

心に安らぎ、平安があるだろうか。いつも山積みの仕事に、なすべき事に追い立てられ、イライラしているだろうか。しかしながら何かをしていないと不安で、何かをなす事で、心の充足を得ようしていないか。何かをする事で安心感を、満足感を得ようとするなら、それは忙しいのではなく、自分で忙しくしている事になる。

 

やむ事ない仕事や奉仕を自分で取り込み、取り憑かれたようにのめり込む。だが、何かをする事で満たされるのではない。主は仕事や奉仕で充足感を与えて下さるが、それはあくまでも結果であって、満たされるために行うのではない。私たちに満足が与えられるのは、何かをする事によってでなく、主にとどまる事によってだ。

 

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝」「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」とどまるなら多くの実を結ぶと。そして、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」。何もする事ができないと。主を離れて、肉であれやこれやと動き回っても、御霊の実が結べない。

 

今、焦りやいら立ち、疲れがあるだろうか。重荷を負って、心が重いだろうか。自分の力で頑張っていないか、行いで満たされよう、認められようとしていないか、立ち止まろう。まずは主と交わり、主の憩いに帰ろう。そして主の平安の中で、多くの実を結んで行ける。

 

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主にとどまっている時は、何と平安だろう。自分の力に頼り、主から出てしまう時は、平安無く、思い煩いや不満愚痴が出て来る。主にとどまって、主と共に労する時、焦りや重圧感は無い。主を信頼しているからだ。離れていると気づかされられる度に、帰ろう。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係