「ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った」ヨハネ2:3

当時の結婚式で、ぶどう酒は重要で、それが切れるのは大失態だった。だが、私たちの人生でも、ある時ぶどう酒が無くなる。自らの失敗、又、病気、倒産、リストラ、離別、経済的問題・・突如の苦境で、喜びのぶどう酒が切れしまう。その時に自分で何とかしようと必死にあがき、もがく。まさに自力で、水からぶどう酒を作り出そうとする。

 

悪戦苦闘し、しかしぶどう酒など作れず、行き詰まり疲れ果てる。そんな時に、私たちのする事は、自分でぶどう酒を作り出すことではなく、「ぶどう酒がありません」と主に向かう事だ。そして言われる通りに従うと、目の前にぶどう酒が一方的に与えられた。

 

ある人は、子供の不登校で悩みに悩んだ。叱ったり、なだめたり、押したり引いたり、何とか登校させようと必死だった。学校や保護者たちとも連携を取り、自分に出来る事はし尽くした。しかし幾ら動いても、時を経ても、全く何一つ変わらず、事態は微動だにしなかった。

 

もう出来る事は何もなく、何のすべも無かった。心身共に疲れ果てた。どん底で、主を仰ぎ、主のもとに行った。まさに「ぶどう酒がありません」状態だ。何も無い。ハンナのごとく心を吐き出し、注ぎ出して、嘆きも憂いも苦しみも、何もかもをことごとく告げて祈った。主と交わっている時に、初めて、自分の内側に気づきが与えられた。

 

人からどう見られているか、人の手前ばかりを気にしている事、自分がこの状況を受け入れられないでいる事を。御前に悔い改めて、いっさいをお委ねする事ができた。状況は変わらないのに、初めて平安と安堵が心に満ちた。人が気にならなくなった。そしてその後、問題は解決した。

 

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祈ってはいるつもりなのだが、実は、自力で何とかしようと、悪戦苦闘してしまう。心は重く苦しく、重荷がずっしり肩にかかる。無力を認めて「ありません」と主のもとに行く時に、主が最高のぶどう酒を備えて下さっている。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係