「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません」ヘブル2:1

信仰生活で、漂流するのように、少しずつ少しずつ流されて行く事に、よく気をつけよう。流されている事に気づけると、仕切り直しが出来るのだが、気づけないまま少しずつ、世に流されて離れて行ってしまう。日曜に礼拝に行って、ぬるま湯の中の1週間だったと気づく。熱くもなく冷たくもなく、なまぬるい。主を求めないまま、過ぎてしまった。

 

特に試練が無いなら、主に頼らずとも、自分で生きて行けてしまうので、主との交わりもないまま流されてしまう。又、「ちょっとぐらい」は誘惑だ。主に従おうとは思っているが、「ちょっとぐらい、このくらいは、自分の好きにしてもいいのでは?」どうしても~したいという強い欲がある時に、「ちょっとぐらい~」とサタンの誘惑が来る。

 

そして乗ってしまい、御心からそれて行く。又、時にあるだろうか。祈らずに、事を行ってしまって、手痛い失敗をしてしまう。後に刈り取る事になる。ある日突然、離れるのでなく、少しずつ少しずつ、知らず知らずの内に流されて、気がつくと、世にまみれて霊的食欲も失せてしまっている。

 

そうならないためには、「聞いたことを、しっかり心に留め」るようにと。「心に留める」は「錨を下ろす」との意味があり、船がしっかり錨を下ろさないなら、波に流されてしまう。主に祈り、御言葉に聞き、主と交わる生活、信仰の人々と交わり、励まし合う歩み、今一度、確認しよう。漂流は気づかない内に起きている。

 

・・・・・・・・・・・・

流されている事に気づける事が感謝だ。気づけなければ、流されてしまう。御霊は絶えずサインを与えていて下さる。今、霊的食欲はどうだろう。以前より減退しているなら要注意だ。主のもとに行く時、御霊を通して、御言葉を通して、霊的食欲が戻される。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係