「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心にあるものを知るためであった」申命記8:2

「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて」と言われている。人生途上、様々な苦しみ、悲しみに会う時に、「なぜ?」「どうして自分が?」と戸惑う。嘆き、怒り、落ち込む。しかし偶然起きているのでなく、不運なのでなく、主が苦しめ、飢えさせると言っている。だが、信仰者を祝福して下さるはずではないのか、病気にならず健康で、経済的には満たされ、受験は合格、畑は豊作、良いもので満たし、最善のものを下さるはずではないのか。

 

だが、病気が奇跡的に治る人もいれば、病気のままの人々もいる。富んでいる人もいれば、貧しい人もいる。身体的、物質的、霊的に、あなたが飢え、苦しむ時は幸いだと言われる。なぜなら、その時こそ、主を知り、天からのマナを食する恵みにあずかるからだ。対人関係、経済的、環境的に「安定」している時、人は神を求めない。自分の力で、十分生きて行けるからだ。必要が無い。

 

その「安定」が崩され、根底から揺らぐ時に、初めて人は目に見えないものに目を向け、見えないものを求め始める。ある夫婦が、生まれた子供に重度障がいがある事が判明した時、絶望の淵に突き落とされた。しかしその深い苦悩ゆえ、見えないものに目を向けるようになった。

 

結果的に神に出会う事ができ、感謝で感謝でならないと。もしこの苦しみが無かったなら、神に目を向ける事など有り得なかったと。試練の時こそ神に出会い、神を真に知る時だ。御言葉が、いのちそのものである事を、身をもって知る。

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あの苦しい時期がなければどうなっていただろう。良い時だけではなく、つらく苦しい時も、この方だけが神であると確信して歩む日々が与えられた。あの特別の出会いこそ真に奇跡だった。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係