「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられる1からである」申命記8:7

エジプトを出たイスラエルの民は、主が約束して下さった乳と蜜の流れる地カナンを目指した。その目指す地に入ってしまえば、信仰は必要無いのかというと、そうではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」と。主を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。

 

ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通っていた。どうしても欲しい、余りにも強烈な願望に、ある時、神から恵みを奪い取ろうとまでしている自分の姿に、愕然とした。これなら目的さえ果たされ、手に入るなら、手段は何でも良くなってしまう。「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでもいい事になってしまう。恐ろしい自分の姿に、涙と共に悔い改めて、自分自身を明け渡した。

 

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、何かを得るための手段にすると、何もかもが的をはずしてしまう事になる。自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りでない時に必ずつまずいて、失望し、神から離れる事になる。

 

私たちをひとり子を与えて下さったほどに愛して下さった、この主を礼拝して生きること、これが目的だ。何かを与えられようと、与えられまいと、又、取られようと、主ご自身を信じて生きる事、主を喜ぶ事、このために生きている。

 

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信じる目的を間違ってしまうと、いつか必ず失望する。順調に行っている間は良いが、逆境になった途端、こんなはずではないと、つまずいてしまう。自分の思い描いた人生と全く異なるからだ。その時こそ、信仰が試されている。信じる歩みへと導かれている。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係