「なぜこの人を困らせるのですが。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです」マルコ14:6

信仰人生で、「時」と「機会」は大切だ。時と機会は主から来る。マリヤは、食卓についておられる主に、ナルドの石膏のつぼを割り頭に注いだ。300万円とも言われる高価なものだ。当時の女性はよく、結婚の時のためにと少しずつ貯えたようだ。マリヤは、主への感謝と愛が溢れ出て、惜しげもなく、主に注ぎ尽くした。

 

十字架へと向かわれる主を、どんなにお慰めした事だろう。何も知らない弟子たちは無駄な事をと憤慨した。貧乏な人たちに施せば良いのにと。そして彼女を厳しく責めた。しかし、主はマリヤを弁護された。わたしのために自分にできる事をしたのだと。主はその愛の行為を受け取られた。愛は計算しない。肉は利得で動く。

 

自分にメリットが無いなら何もしたくない、する意味がない。しかし愛には計算が無く、損得勘定が無い。「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり・・」の通り、御霊に動かされる時、自分の損得でなく、主をお喜ばせしたい一心となる。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」いつでも出来る事と、今、この時にしか出来ない事がある。

 

主が言われた通り、その時と機会を逸したなら、マリヤは香油を塗ることができなかった。この後、主は十字架へと向かわれた。いつでも「機会」があるのではない。御霊の示される貴重な、その時しかない「時」がある。それを逃したなら二度とない機会だ。今、もし御霊の示しがあるなら、時と機会を逃す事なく、主に愛を表わそう。

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愛をもってじっと見ていなければ、また次もあるだろうと機会を逃してしまう。マリヤのように何とか主をお喜ばせしたい、愛を表したいと、その思いで見ていることが必要なのではないだろうか。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係