「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです」ヘブル11:3

こんな例えがある。「事実(御言葉)」と「信仰」と「感覚」が順番になり、山の上を歩いていた。「信仰」は目の前の「事実・御言葉」だけを見ていると、どんどん問題なく前進できた。そこに後ろに続く「感覚」も順調について来た。ところが、「信仰」が前を行く「御言葉」から目を離して、「感覚」を振り返った途端、「信仰」と「感覚」はもろとも、谷底へ転落してしまった。

 

そして「事実」だけは一向に関係なく、前に進んで行った。信仰生活の正しい順序は、「御言葉」「信仰」「感覚」だ。感情はあくまでも、御言葉と信仰の後について来るものだ。しばしばこの順序を逆にしてしまう。「感覚」を一番に持って来て、「信仰」最後が「御言葉」だ。すると迷路に迷い込む。「感情」に振り回されるばかりで、信仰生活が激しいアップダウンを繰り返す事になる。

 

わたしたちはこの世界で生きているために、感覚である五感に深く拠り頼んでいる。それは必要な事で、五感で危険を察知しなければ、命を落とす事になる。しかし信仰は霊の分野で、通常の五感では感知できない領域だ。信仰を五感で、人間的領域でつかもうとすると、霊的事柄が全くわからない。そうであれば、感じなければ信じないし、信じようとしない。

 

そうでなく感じようと感じまいと、感情がどうであろうと、御言葉を真実、事実として信じて行く時に、後ろから感情がついて来る。感情を先に持って来て、振り回され、混乱していないだろうか。

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見て感じるものと御言葉にはいつも大きなギャップがある。不安定な感覚から一度離れて、信仰を働かせよう。主に祈り、約束の御言葉を握り、主にある豊かな一日を過ごそう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係