「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです・・世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか」ヤコブ4:3

時に、祈りがなかなか答えられない事を経験する。祈りは学校であり、祈りとは、様々な経験を通して学んで行くものだ。最初からよく祈れるわけではない。むしろよくわからない中で、実践の中で、少しずつ学ばせられて行く。

 

祈りには原則があり、御心にかなう祈りが答えられるとある。御心でない祈りは、幾ら祈っても答えられない。これも祈りの中で経験する。つまり、御心にかなった祈りを知るために、祈る事になる。しばしば自分の思いのままに祈るのだが、祈りの中で、自らの祈りが軌道修正されて行く。

 

主の栄光ではなく、自分の欲望で祈っていて、自分でも気づかない。だが祈りの中で、そんな動機に気づかされ、祈りが変えられて行く。御霊に助けられ、自分も変えられ、御心にかなう祈りへと、導かれて行く。自分自身の姿が見せられ、砕かれ、整えられて行く。

 

ある人がイベントのために祈り、アイデアが浮かんだ。良い案で御心を確信し、進めるのだが反対があり、ギクシャクし思うように行かない。一致が得られない。何とかしようとするのだが、事は進まない。イラ立ちを抑えきれず、主の前に静まり、祈った。

 

すると心の内を照らされた。確かに主に導かれた企画だが、意見を異にする人々を良く思わず、腹を立て、対抗心を持ち、何が何でも遂げようとする、内に潜む強い自我に気づかされた。主が飛んで、自我で押し進めようとしていた。心から悔い改め、自分自身も企画も、今一度、主の手にゆだねた。

 

するとその後、不思議に、事が前に進み、実現して行ったのだった。祈りの中で、私たち自身が変えられ、成長へと導かれる。

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祈りは、祈りの中で学ばされ、教えられて行く。形の違う応えが与えられているが、気づいていないかも知れない。祈りっ放しでなく、経過や、答えもよく見張っていよう。動機も御霊が教えて下さるので、そこにも目を留めていよう。祈りの中で、主を知って行く。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係