「『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」マタイ4:9

主を信じる人々がクリスチャンだが、一体、自分は「何のために」信仰しているのだろう。もし、信仰が、自分が求めている何かを得るための「手段」なら、どうだろう。欲しいものを手に入れたなら、もう信仰は不要になる。又、熱望するものを得る手段であるなら、何が何でも欲しければ、他の手段でも良くなってしまう。

 

サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。欲しいものを何でも上げるよと、その誘惑に乗ってしまう。目的のものを得たいだけであり、別に誰がくれようと、構わないのだから。神を利用する事になる。しかし主には、御父を礼拝する事は、手段でなく「目的」であられた。このところが肝心だ。

 

もし信仰が、良い人生、高尚な生活、道徳的生活、人格者になる事、心の満たしや自己実現の手段だとするなら、主が自分の思い通りに、期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必ず失望する。主から離れ去る。形だけ礼拝していても、心には喜びがない。実質、得るものが無いのだから。

 

しかし神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神との交わりを目的として歩むなら、何があっても、どんな状況になろうと、平安と喜びを失う事はない。状況は関係ない。あなたは「何のために」信仰しているだろう。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」

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主の荒野の試みは、私たちにも生涯に渡って付きまとう誘惑だ。自分の欲望が満たされる事だけが願いなら自分を拝んでいるのかもしれない。神を神として生きるためにサタンにノーと言おう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係