「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20:24 

ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようと、ヤコブを剣で殺害した。それがユダヤ人に気に入られたのを見て、次にペテロを捕らえにかかった。ペテロを捕らえ、投獄し、民の前に引き出そうとしていた。しかしペテロは、何と引き出される日の前夜に、突然、主の御使いによって、牢から救い出されたのだ。

 

「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」の通り、教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。その結果、ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。これらは何が違うのか?なぜ?と思う。これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、主のご計画であり、それぞれへの召しだ。その違いだ。ヤコブは殉教によって、神の栄光を現し、ペテロは更に宣教の任務が与えられていて、それによって神の栄光を現す。

 

ヘブル11章に、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」とあり、奇跡に次ぐ奇跡により前進して行った。そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。

 

見えるところは、全く違うが、どちらもが「信仰によって」歩んだと記されている。一人一人に備えられた主のご計画があり、それは一人一人全く違う。隣との比較でなく、主から自分に与えられた人生、自分に委ねられた行程を全うする事が、一番の喜びと平安の道だ。

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ヤコブは死んでペテロは助かっても、どちらも命が助かることだけを祈ってはいなかっただろう。自分だけに与えられている道をしっかりと受け止め、主に信頼し平安に満たされて歩みたい。

 

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係