ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようと、ヤコブを剣で殺害した。それがユダヤ人に気に入られたのを見て、次にペテロを捕らえにかかった。ペテロを捕らえ、投獄し、民の前に引き出そうとしていた。しかしペテロは、何と引き出される日の前夜に、突然、主の御使いによって、牢から救い出されたのだ。
「教会は、彼のために、神に熱心に祈り続けていた」の通り、教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。その結果、ヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。これらは何が違うのか?なぜ?と思う。これは、ヤコブとペテロそれぞれに対する、主のご計画であり、それぞれへの召しだ。その違いだ。ヤコブは殉教によって、神の栄光を現し、ペテロは更に宣教の任務が与えられていて、それによって神の栄光を現す。
ヘブル11章に、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」とあり、奇跡に次ぐ奇跡により前進して行った。そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦しめられ」と、殉教して行った。
見えるところは、全く違うが、どちらもが「信仰によって」歩んだと記されている。一人一人に備えられた主のご計画があり、それは一人一人全く違う。隣との比較でなく、主から自分に与えられた人生、自分に委ねられた行程を全うする事が、一番の喜びと平安の道だ。
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ヤコブは死んでペテロは助かっても、どちらも命が助かることだけを祈ってはいなかっただろう。自分だけに与えられている道をしっかりと受け止め、主に信頼し平安に満たされて歩みたい。
発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係