「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」詩篇40:8

みこころを行う事が喜びだと言っているが、肉は、自分の願い、欲望が叶うことが喜びで、幸せだと思う。欲望が満たされる事は、非常に心地良いからだ。又、自分の利益になる事も快い。与えるより受ける方が幸いになる。目の前の事態に、とっさに自分の損得を基準に判断し、行動してしまう。メリットが無い事に関わりたくないし、時間も労力も財も使いたくない。

 

そして又、仮に全財産を貧しい人に施したとしても、愛が無ければ何の役にも立たないと言っている。全財産を与えるのは、大変な犠牲的行為だ。しかし動機が問題で、それが自分の栄誉のため、自分のプライドや賞賛のためなら、何の益も無いと。人は、自分の栄光のために、かなりの事が出来てしまう。しかしそれならいっさいが無益だと。信仰は、根底が自分中心から、神中心への転換だ。

 

日々の生活に心が満たされず、心の奥に虚しさがあり、欲しい物を手に入れても満足が無いのは、自分中心に生きているからだ。それを神中心に転回して行く時に、真の心の満たしを経験する。神は、私に何を願っておられるのか、私への御心は何か、神はどう思っておられるのか、まず「神は」を主語にする時に、すべてが秩序を持って回り、自分自身にも真の平安と喜びが臨む。

 

私たちは、自分で思い描いた幸せを望むばかりで、主が私に与えようとしている溢れる祝福を受け取り損ねていないだろうか。自分の思う幸せに固執していないだろうか。主のみ思いは、全く別にあるかも知れない。主のみ思いを尋ね求めよう。

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心はいつも感情と打算に流れてしまう。御心を祈っているつもりでも自分の有益ばかり願っている。何を一番にしているか、立ち止まり今一度、点検したい。

 

 発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係