「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」Ⅰヨハネ3:17

困難が起きた時に、まず頼るは主であり、避け所だ。何があっても、頼るべきお方、行けるところがあるとは、何と幸いな事だろう。しかし自分が困った時に、大胆に確信を持って祈ろうとするなら、普段から「神の命令を守り、神に喜ばれることを行っている」ことが大切だと言っている。

 

すなわち他人の事を思いやり、他人が困っている時には、その必要に仕えていなければならない。人が困っているのを見て、助けることができるのに、憐れみの心を閉ざすなら、自分自身が困った時に、どうして心が責められずに、主の御前に出る事が出来ようかと。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答えられない。」

 

人の苦しみには耳を閉じ、自分が困っている時には助けて欲しいとは、自らの心がとがめて、御霊によって、祈る事が出来なくなる。心にとがめがあるなら、それが妨げとなり、どれだけ祈ろうとしても確信が持てない。祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前に出られるように、普段の生活で御霊に示される事には、一つ一つ従って行こう。

 

肉は犠牲を惜しみ、渋るので、御心に従えるように助けを求めて祈ろう。そうする時、御前に心が平安にされる。そしてとがめ無く大胆に祈ることができて、「求めるものは何でも神から頂くことができる」素晴らしい恵みと祝福にあずかる。 

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御霊のうながしに従えるように祈ろう。受けるだけで満足し、人のことを顧みられない者だ。自分には出来ないが主がしてくださる。御霊に導かれ主の心で従おう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係