「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19

信仰の人、アブラハムの状況はどうだったのだろう。75歳で「生まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け」との召しでカナンに出発した。そしてカナン人との闘いの日々だった。長く子どもができず、しもべエリエゼルを相続人にと考えていた。「子孫を下さらないので、家の奴隷が跡取りになる」と。すると主は「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が継がねばならない」と。

 

主は彼に満天の星を見上げさせ、子孫はこの星のようになると告げられた。その時「彼は主を信じた」。彼は、神の約束を信じた。現に子供はおらず、見えるところでは、状況的には、非常に受け入れ難い事だった。しかしアブラハムは神ご自身を信じた。状況でなく、神ご自身の方を見て信頼した。「彼は望みえない時に、望みを抱いて信じた」。

 

望み得ないときに望みを抱くからこそ、信仰だ。目に見えないから「信仰」なのであって、目に見えたなら、信仰は必要無い。人間の五感による、感覚的な実感などどこにもない。状況を見て、感覚を頼るなら、どこを見ても信仰など湧いて来ない。目の前の状況から出る結論は「不可能」だ。その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。

 

それは約束の言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ直ぐ受け入れた時、それが彼の義とみなされた。そして「彼の義とみなされたと書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです」。私たちも、アブラハムと同じ祝福にあずかると。

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少しでもしるしがあれば安心できるのにと思ってしまうが、約束してくださるのは神だ。これ以上の安心があるだろうか。状況を見ればネガティブになるが信仰に立って前を向こう。

 

発行 広島聖書バプテスト教会 み言葉配信係